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ぺーじむいしゅきん−北海道十勝の原野より

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#物語に入る(メモ)

六月に入ってからT氏は出張続き、天気は雨続き、家族は風邪続き、キツネがやってきて産卵率はガタ落ち、挙句に雄山羊ガラさんまで風邪をひいてしまい、晴れやかとは言い難い我が家。 何か、目が覚めるようないいことがないかなあ…。
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気分をから揚げにしたくて、ヤマブドウとヨモギとオオバコをとってきた。
米粉をはたいて、ジャーッ!

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こちらは野良ゴボウ。 農家さんだったら放り投げるような品質だけれど、種を投げておいただけでここまで育ち、小さいなりに食べることができるのだから、ありがたいと言わなければならない。 ゴボウはもっと種を投げてみよう…。

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家の近くに出ていたキノコ。ナメコのようにみえるのだけれど…。
キノコは畑の脇などにたくさんでてくるのだが、知識がないので手をつけられない。

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前前回の記事で、「自分から(例えばセミナーや懇親会などの場に)出かけているわけではないのに、普通に暮らしているだけで次々と出会いがあり、何事かが起こってゆき、自分をどこかへ連れて行くようで不思議だ」と書いた。

あれから、そのことについて時々考える。

十勝に来て三年とすこし。原野に来て丸二年。
冬の長さに辟易したり、思い通りに進まない開拓に苛立ったり、「二拠点居住にしよう」なんて半分本気でT氏に提案したり。
まだ、自分とこの土地との関係がゆらぎないものとは言えない。
お墓の脇を通るたびに、「わたしもこの地で墓に入るのだろうか?」と、何か心許ない思いになる。
東京の友人から手紙が来るたびに、「もうひとりのわたし」が東京にいるパラレルワールドを彷徨ってしまう。

まだ、目覚めたら所沢にいて「全ては夢だった」ということがあっても、不思議ではないような感じ。
子どもの送り迎えの車内で古楽を聴きながら、今が日常ではなく旅の途中であるかのように錯覚してしまう。

…だけれど、不思議なことに、ここ数か月の間に「物語の中に入った」というような感覚があるのだ。
このフィールドで生まれる物語の中に、自分がふっと入れたような感じ。
うまく言えないのだけれど、そこでは流れている音楽も、見える景色も、起こる出来事も、それまでにわたしが住人であった「物語」とは全く違っていて、わたしはわたしのままであっても、前の物語とは全く違う出来事が起こり、全く違う方向へ話が進んでゆく、そんな感じなのだ。

「住んでいる場所が違うのだから、当たり前だろう、そもそも引っ越しだけでなく、仕事を変えたり、子どもを産んだり、そういったひとつひとつの選択が、全く違う物語へ誰しもを導くのだから」
と、そう思われるかもしれない。
わたしも、至極当たり前のことを書いているようでなんだか恥ずかしいのだが、どうしたらこの不思議な実感を表現できるのだろう。このことが起きたのが移住してすぐではなく、今になって、というのが、わたしにとっては興味深くて不思議なのだ。

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わたしが一度もお会いしたことのない、一度お会いしてみたいと思っていたNさんという女性がいる。
彼女は帯広で編集者を務めたのちに道東で両親と共に宿を営んでいた方で、宿のブログによれば日々山菜をとったり、罠で鹿を獲ったり、旅人をもてなしたり、していたらしい。
三人もの人からその人の話を聞いて、一度泊まってみたい、お話してみたいと思っていたのだが、結婚して京都へ移ったのだという。

一度も会ったことがないNさんのことを、なぜか時々考えてしまう。
雪山で鹿をとって、捌いて、食べていた彼女が、京都へ行ってどんな暮らしをしているのか。
目に入る風景の大きさが全く違う場所で、生きるスケール感のようなものも、身体を流れる音楽も、すべてが異なるであろうその場所で、彼女がどんなことを感じて生きているのか…

それはもう、『白雪姫』と『プリティ・ウーマン』くらいに世界が違うんじゃないか。
『ドラゴンクエスト』と『ときめきメモリアル』くらいに世界が違うんじゃないか。
つまり、同じ主人公が別の町なり別の仕事を見つけて話が展開していく、というのではなく、もう、物語ごとすっかり入れ替えるような体験なんじゃないか、と、想像するのである。

『ドラゴンクエスト』から『ときめきメモリアル』へ、すんなりと移れるかどうかはわからない。いつ移れるのかもわからない。身体が移ったら自動的に物語が移るわけではなく、時間をかけて自分がその土地のつながりの中に「入って」いく過程で、物語の中にも「入って」いくのではないか。そんなふうに想像してみる。

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この「物語に入った」という感覚は、すごく心ときめかせるものだ。
友人が、昔イタリアで過ごした日々のことを「毎日がきらきらしていて、そこだけ宝箱に入っているよう」と表現したのだけれど、わたしは、そんなふうに人に感じさせる秘訣のようなものは「物語」であるような気がしている。

それは、具体的にはどういうことなのだろう?
土地と、自然と、歴史と文化、そしてそこから生まれるうつくしさや音楽やスケール感やそういったもの、そして人のつながりや縁のようなものに「自由な心で身を任せる」ような、そんな感覚だろうか。
土地でとれるものがその気候で過ごす身体にしっくりと合う、というような調和が様々な点で自分をとりまき、ドミノ倒しのように自分の中で理解できる、そんな感覚だろうか。
それが、ひとつのきっかけが次々に別のものにつながって、主人公を導き、最後は円となるような、そんな「物語感」を生み出すのだろうか。

十勝というのは地域愛がとても強いところで、地域のものびいきだ。距離でいえばとても広範囲に亘るのに人と人とのつながりが強く、おまけに多くの人は比較的新しいもの好きだから、知り合いの知り合いがすぐに知り合いになる。
そんな十勝の、人と土地との、そして人と人との「つながり感」の高さがわたしの「物語感」をつくりだしているのかもしれないし、わたし自身の原野やこの土地との調和が高まってきたせいなのかもしれない。その両方かもしれない。
最近よく、「引き寄せ」という言葉を見かけるけれど、わたしは自分がぐいぐいと引き寄せるというよりも、何か人のつながりの中、自然の循環の中、この土地の歴史の中に入れてもらう、と想像する方が楽しい気がする。

う〜ん、自分でも自分に何が起きているのかよくわかっておらず、整理されていない文章になってしまった…
今回のところはメモということで、また、自分で理解できたら書いてみることにしよう。




2016.06.21 Tuesday ... comments(2) / -
#Comment








ブログいつも楽しく拝見しています。
十勝でたくさんの物語、紡いでください。
先人たちが遺した大切な物語。2世3世が置き去りにしている物語。
あなたに物語の続きを期待しています。
| あゆ | 2016/06/23 12:24 PM |
こんにちは!
お返事遅くなって失礼しました。

ここの土地で紡がれてきた物語に、十勝に移った当初からとても心惹かれてきました。
開拓の真似事を始めても、自分はいつまでも余所者でここの土地の物語とは別なのかなと思っていたので、あゆさんのコメント本当に嬉しいです。
ここに生きる植物や生き物、人々とのご縁を大切にして生きていきたいと思っています!
| 江島悠子 | 2016/07/03 6:45 AM |
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