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ぺーじむいしゅきん−北海道十勝の原野より

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2019.01.11 Friday ... - / -
#命を食べて、命を還す −伊沢正名さんの「糞土哲学」−

寝込み生活中もずっと「あれだけは書かねば…」と心にひっかかっていた、伊沢正名さんの生態系講座の記事。だいぶ体調が回復してきたのでようやく書けそうだ。

『生態系講座』と銘打ちはしたが、その内容のほとんどは「野糞の話」である。

キノコやコケなどの写真家として高名な伊沢正名さんは、40年以上「野糞」を続けている。
もちろん、単なる趣味ではない。考えてみればすぐにわかることだが、一回、二回ならともかく野糞を毎日続けるとなると、強い信念なしにできることではない。野糞ができる場所など限られているうえ、自然に分解されるために必要な時間を考えれば同じ場所に何度もするわけにはいかない。毎日のように野糞のための計画が求められる。
汚い、下品、不衛生、そして環境破壊ではないか、といった批判や攻撃にさらされることも容易に想像がつく。

では、そこまでして伊沢さんが野糞を40年も続けてきた理由、そして彼が野糞を通して伝えたいこととは一体何なのか。
…という話を、我が家でしていただいたのである。

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伊沢さんの話に入る前に、面倒くさがりのわたしがなぜ、この講座を主催することになったのか、そのことを書きたいと思う。

直接的には、去年通っていた長沼(現在は当別町)の「エコビレッジライフ体験塾」の塾長の伊藤伸二さんが、伊沢さんの主宰する「糞土研究会」というネットワークに入っており、「今年、十勝でも開催してはどうか」と誘ってくれたことがきっかけだ。
わたしは去年伊藤さんに借りて伊沢さんの『くう・ねる・のぐそ〜自然に愛のお返しを〜』という本を読んでおり、「水洗トイレってどうなのかなと思ってきたし、コンポストトイレを作るのもいいなと考えていたけれど、こんなにシンプルな方法で土に還している人がいるとは!」という驚きと感激を味わっていた。

しかし、単にコンポストトイレの代わりに野糞を提唱するという話であれば、開拓だけで手いっぱいなわたしが集客の見込みもないまま開催しようなどとは思わなかっただろう。
わたしが伊沢さんの話を十勝の人たちと聞きたい、と思った理由は、十年近く前、わたしが大学四年の頃に感じたことに関わっている。



わたしたちが大学一年の頃、アメリカで同時多発テロが起きた。
大学三年の頃、アメリカがイラクに侵攻し戦争になった。バグダッドで何人が死亡した、というニュースが毎日のように新聞に載っていた。
テロも頻繁に起きていた。自爆で何人が死亡。子どもが自爆。結婚式で自爆。
わたしは何もできないまま、ただ犠牲者ひとりひとりを悼みその人生を想像しようとして、そのことに耐えられなくなった。
飛び散った肉片や血まみれの広場や子どもを失った人の悲しみに。
食欲が落ち、「これは殺されたものだ」と思うと肉が食べられなくなった。

それはやがて死そのものへの恐怖となった。
死ぬと人はどうなるのか、テレビのスイッチを消したように消えてしまうのか、と考えるととても怖かった。
「わたし」はどこへ行くのだろう? 無になってしまうのだろうか?
あの夏はとにかく死ぬことが怖くて、どんな短歌を詠んでも死の影がつきまとっていた。

そこから抜け出たきっかけは、「生き物には肉体がある」ということの発見だ。
当たり前なことのようだけれど、頭でっかちなわたしは「わたし」という意識がどうなるのか、ということばかり考えていて、身体のことを忘れていた。

−そうか。意識は消えてなくなるかもしれないけど、身体は地球上に残るんだ。すべて消えるわけじゃない。
−それならわたし、死ぬ前に小さい魚にでもなって、T氏が口を開けた瞬間にするっとすべりこんで食べられたいなあ。
−燃やされて灰になっても、残るといえば残るのかもしれないけど、他の生き物に食べられて命になる方がいいなあ。ずっと他の生き物の命をいただいてきたんだもの。
−分解されて、最後は炭素だかなんだかの元素になっても、それがどこかに消えてなくなるということはなくて、ずっと地球のうえにいるんだな。
−じゃあ地球はわたしの身体と同じだな…

その考えは、死に怯え、死を禍禍しいものとしてしか認識できなかった当時のわたしにとって、大きな救いのように思えた。
生き物の命が循環している地球という星はひとつの生き物のようなもので、自分はその大きなものの一部である。
いつか還る場所の一部。今はつかの間「わたし」という形をとっているだけ…。
死というものの概念が変わり、恐れが消え、そして生態系という「命の連鎖」への敬意が生まれた。



伊沢さんが「野糞」を続けるのも、生態系という「命の連鎖」への敬意、その一部でありたいという願い、そして彼の死生観に理由がある。
「便を無駄にせず、地球に還して他の生物の命に」と「死んだら遺体を燃やさずに他の生き物の命に」は、ほとんどイコールである。
ウンチの話は、命の話なのだ。
伊沢さんのお話は、命を食べて、食べっぱなしの人々に贈る、命を食べて、命を還す生き方の話なのだ。

実際に「野糞」ができなきゃダメ、とは、わたしは思っていない。原野に住んでいるわたしだって毎日は無理だし、難しいという人もたくさんいるだろうと思う。
彼の話を通じて自然の中で巡る命のこと、そして自分もその一部であること、生と死が繰り返される自然界の営みと生態系への敬意と驚嘆…そんなことを感じてもらえたら。
取り入れたり出したり作ったり捨てたり生まれたり死んだりして続いてきた生と死の営みを改めて意識する中で、わたしたちの暮らしのあるべき姿を共に考えられたら。
そう考えたことが、今回の講座を開催した理由である。

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いきなりウンチ話ではなく、まずは伊沢さんの美しいキノコの写真たちから。
写真家としての伊沢さんの作品を知らなかったわたしにとっては、「キノコってこんなに美しかったのか…」と驚きの連続。
「上から目線ではなく、敬意をもって接することで自然は美しさを見せてくれる」と伊沢さん。
写真って、被写体が同じでも撮影者の目線・まなざしがはっきりと出るところが面白いよなあ…(本題を忘れてしみじみ)

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ちなみに手に持っているのはイタドリの枝(笑)

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美しい菌類たちが生えているのは…鹿のウンチ。
そう、ウンチは菌類たちにとってはご馳走!

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人間界では厄介者とされて大量の水を使って流し、処理場で薬品やエネルギーを使って処理されているウンチ。
土に埋めると、掘り返されて何者かが食べたり、植物の根が養分を求めて伸びてきたり、キノコが生えたり…様々な生き物から必要とされていることがよくわかる。最後には土になり、香りもなくなる。

上の写真は、ウンチが食べられてなくなった穴に誰か小さいもの(ネズミかな?)が木の実を置いていったという、微笑ましい写真。
「汚い」と、思いますか?
「不衛生」ですか?
そんなこといったらそこらじゅう色んな生き物のウンチだらけで、土に触れなくなってしまうよね。

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お尻はどうやって拭くのかって?
自然に還る葉っぱです。
極上の葉っぱはトイレットペーパーより気持ちいいんだよ〜との言葉に、皆さん「えー!」

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この日集まった人たちはほとんどが生態系への理解のある「森の人たち」で、葉っぱを回すと「あ、ギンドロ!」とあちこちで声が。

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ギンドロの葉の裏は、まるでびろうどのような手触りなんだな…。

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伊沢さんの人柄もあり、皆さんリラックスして和やかな雰囲気。

「山のトイレ問題(高山など分解力の低い場所で登山者が自然の分解力を超えた量の野糞をすることによって草木が枯れるなど自然が破壊される問題)などについてはどう考えていますか?」との質問には、
「自然には分解する力があるが、それを超えた量をするのは問題。自分は一度した場所には目印を立てて一年はしないようにしている。高山などの場合は牛乳パックなどに入れて持ち帰り適切な場所に埋めるとよい。市販の携帯トイレはエネルギーをかけて作られているので」というお返事。

また「どこかのティッシュメーカーが、途上国の人々が不衛生な環境のために命を落とすことがないようにトイレを作ろう!というキャンペーンをやっていたけれど…?」というわたしからの質問には、
「水源の近くに野糞をして水が汚染されたり、集落の近くで野糞が過密になったり、きちんと埋めなかったりすることで衛生上の問題が発生することもある。しかしその解決策としては、他国の人間が出て行ってトイレを作るよりも正しい野糞の仕方を教える方がよほど効率的で環境にも良いのでは?」と伊沢さん。
さすがはプロ、「野糞」に対する疑問には瞬時に答えてくれる。

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その後原野を歩いて、お尻ふき用の葉っぱを探す。
一枚では心許ないヨモギも集めれば使える!
乾燥するとカサカサして使えない葉っぱもほんのり湿ってやわらかくなっていると使えるものがある…など、すぐに使える知識がいろいろ。

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真剣ながらも楽しそうな伊沢さん

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「熊笹も裏に毛がはえていてなかなか良い」との評価。熊笹なら無限にありますっ!
ここでも参加者さんから「お尻が切れちゃいませんか?」との質問が。
伊沢さん「端っこを破けばOK!」
楽しいやりとり。

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このフィールドワークの後は、お部屋に戻ってエコビレッジライフ体験塾の伊藤さん(伊沢さんを送りがてら、講座の運営も手伝ってくれた)から「自宅の裏山で放置したウンチがどうなったか実験」のレポートが。
生々しすぎて写真は撮らなかったけど(笑)、埋めなければ菌類や植物が分解する前にもっと大きな動物が食べるのでなくなるスピードは速いようだ…という話。
わたしも伊沢さんの講座に先立ち、原野に少年のウンチを放置して実験してみたのだけれど、一体誰が食べるのか、最短で二日、ほとんどが一週間もしないうちにきれいさっぱりなくなり、もちろん臭いもしないことに驚いた。
これが自然界での「当たり前」なのか!と。

もちろん人間界の「当たり前」はそうではないので、実際に野糞をするにはハードルもあると思うけれど、人目を気にする場合はタライにしてから外に埋めに行くとか、方法は色々あると思う。外でする方が爽快だろうけれど、我が家の場合は初夏はブユも多いので難しそう。ヤギみたいにハエやブユを追い払うしっぽがついていたらいいのだけど。

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今回は会場の雰囲気がとてもよくて、最後には「また伊沢さんに来てもらいましょう!」という声が参加者さんたちの間から上がったくらい。遠く札幌や釧路から参加してくださった方もいたのだけれど、皆さん楽しみつつ伊沢さんの「糞土哲学」にも共感していただけたようで、満足した表情で帰られる方ばかりで嬉しかった。
途中で「トイレはどうすればいいですか?」と聞かれた方がいて
「トイレはそこに…」
「あ、えっと(それはわかっているんですけど、、)」
「あっ!外ですか?! 家の周りでなければどこでも大丈夫です〜むこうの茂みとか…」
なんていうやりとりもあって伊沢さんも喜んでくれた。
事前にお会いしたことのある方は一人もいなかったのだけれど、素敵な方ばかりだったのでまたじっくりお話してみたいなあ。

解散の後もキノコ談義などゆっくりお話したり、ご飯を食べたり(自家採取キノコ料理を分けてくださった方も…)と和やかに過ごすことができた。



つわり寝込み生活真っ最中で「この日だけは絶対になんとかする」という気合いだけで過ごしていたわたしは、伊沢さんが釧路に発った後すぐにへなへなと床に倒れ込んで眠ってしまった。
眠っている間にあとりの会のN君が「鮭が釣れたから」と持ってきてくれたらしく、T氏がさばいた。
そういえば伊沢さん、自家製イクラ丼が懐かしの味だったようで「北海道で食べるのは味が違う」ととても喜んでくれたっけ。

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わたしは普段自給自足のサークルをやってはいるけれど、自給したい人=環境や生態系に興味がある人というわけでもないし、今回は最初から全くもって集客のあてがなかった。
新聞二社、かわら版、芽室の町の駅や帯広の自然体験施設はぐくーむで宣伝してもらったり、大学や子育てNPOにちらしを置いてもらったり、さらには人づてで個人へ連絡をとらせていただいたり…「野糞だなんていって、不衛生だとか怒る人がいたらどうしよう、誤解されたらなんて説明しよう」とドキドキしていたのだけれど、ほとんどすべての場所で「とても面白く有意義な企画だ」と言ってもらえて驚いた。
おかげさまで当日の朝まで電話が鳴ってほとんど満席!
特にはぐくーむのTさん、参加してくださった写真家のKさんにはじっくり話を聞いていただき共感していただけて、一人で奔走していたわたしはとても勇気が沸いたし、協力していただいて感謝でいっぱいだ。
また、今回伊沢さんを紹介してくれ、収穫期で忙しい中、当別から来てくれた伊藤さんにも感謝、感謝…。

その後体調不良が続き「土に還す」を実践できていないわたしだけれど、復活したらできる範囲で行動してみよう。
伊沢さん、みなさん、ありがとうございました!




2016.11.08 Tuesday ... comments(0) / -
#いなかくらし礼賛?

アリスファームの本のあとがきで、「この本に載っているうつくしい庭や畑などは、最もおいしい最後の実りの部分であって、ここに載っていない(圧倒的に長い)前段階を経て完成したものである」というようなことをフジカドさんが書いていたことを思いだした。

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今月号の『田舎暮らしの本』に、わたしたちの暮らしのことが載っている。
わざわざ関西からライターさんが取材に来たのである。
できあがった誌面は、半日の取材内容がうまくまとめられており、写真も綺麗に写っている。文章の内容もわたしたちが語ったままだし、ライターさん相手だからといって特別な接待をしたというわけでもない。
それでも実際に生活している側からするとなんとなく、読者をだましているような気分になってしまうのは、やっぱり「ここに載っていない(圧倒的に長い)前段階」こそがわたしたちの生活のメインである、という思いがあるからなのだろう。

以下が我が家における(アリスファームとは比ぶべくもないがそれなりに必死な)「前段階」である。

 

AM

起床、朝の家事
ハウスの水やり
ヤギをつなぐ、ヤギの水やり、雄ヤギがからまっていたのでほどく(とても時間がかかる)
原野のごみ拾い
洗濯、子どもの学習をみるなど家事
クラブアップルの周りの草を刈って干す
黙々とハーブ畑草取り

PM(暑くてふらふらになりながら帰宅)
昼食づくり
ニワトリたちを運動場へ出す
ニワトリ水、エサ、緑餌やり
ニワトリを見張りながら昼食
デザートをつくって食べる(部屋のいちばん涼しいところでちょっとだけ涼む
ヤギたちの場所を移動させる
草取り再開
子どもたちと一緒に刈られた道路わきの草をレーキで集める。山にして、リヤカーに乗せ、ヤギ小屋まで運んで入れる。

雨の気配、洗濯物をあわてて取り込む
子ヤギを小屋に入れる。
子ヤギが干し草を食べようとしたので、別の部屋に入れる。
夕食の食材を収穫(オカノリ、レモングラス、トマト、ミニトマトなど)

以下、家に戻って家事

 

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仕事をしているの? していない? じゃあ平日何をやっているの? と聞かれるわたしの、一言で説明しがたい日常がこれだ。

共働き時代と比較すると収入は半分だし、だからといって楽できているわけでもない。「スロー」でもない。

 

育苗がうまくいかず、お向かいさんに苗を分けてもらったトマトたちは、長雨で灰色カビ病にかかってしまい、生き残ってはいるものの去年ほどの収量は期待できない状況。いつか胸を張って人に紹介できる畑になるのかどうか、ぜんぜん自信がない。
開拓のために飼っているヤギたちは、草をもりもり食べてくれる。が、逆に逃げ出して作物を食べてしまったり、食べてほしい草ではなく残したい草木ばかり食べてしまったりすることもある。暑い日はばてて倒れてしまわないか、心配の種でもある。

卵の生産も「自給を確立」なんて雑誌には書いてあるけれど、その後キツネといたち(と思われるもの)にやられて今は6羽になってしまった。

「確立」できているものなんて何もなく、すべてが模索と実践、失敗そして模索の繰り返しだ。

一生をかけても「確立」というところまではいかないのではないか、と思ってしまう。

 

そんなわけで、先日ラジオで雑誌を読んだパーソナリティーの方に「いいですねー、すてきですねー」と声をかけられつつ、「えーっと、そうですねー(一言でいえば、すてきなのか、いいのか、うーん、わたしにとっては価値あることだけれど、すてきと言えるのか、この人にとってはどうなのか…)」というようなボンヤリした返事を返すことになってしまった。

このひとは「前段階」のすべてを知っても、すてきと言ってくれるのだろうか? イメージとは違う現実を知っても、いいねと思ってもらえるのだろうか? というところが、どうしてもひっかかってしまうのである。
 

 

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雑誌の取材の際に訊ねられた中に、実際には掲載されなかったことがある。
それは「どんな人がこのような田舎暮らしをするのに向いていると思うか」という質問。
わたしたちの答えは、こんなふうだったと思う。

「安いから選ぶ」というのじゃない人。
「月10万円で暮らせる町」なんていうテレビ番組もあったし、田舎暮らしは安い、と思っている人が多いかもしれないけれど、実際はそうでもない。
特に北国はタイヤ代だの、ここのように車社会なら車は二台が必須でさらにそれぞれガソリン代…など、都会で暮らすよりもお金がかかる部分も多い。
そして自給についても、「買った方が安いし、楽だし、クオリティも高い」ということがままある。
だから、安いほうがいい、という価値観のまま田舎に来ても、楽しめないと思う。
安いことではなく、自分の手で作ることに価値を見いだせる人、
安いことではなく、地元の、顔の見えるつながりのなかで物やお金が循環することに価値を見いだせる人、
水のおいしさや澄んだ空気や星空のうつくしさや、そういったものにお金以上の価値を見いだせる人、
そういう人が向いていると思う。

 

うん、これ、伝えたいなあ。
そしてもうひとつ、やっぱり「圧倒的に長い前段階」に価値を見出しそれを楽しめる人、だろう。
できあがった成果だけを評価されると、完全に原野と子どもたちに負けているわたしは以前の自分や同年代の人々と比べてひどい落ちこぼれだろうけれど、そこから多くのものを得ていると思えるからこそこの生活を続けられるのだ。
 

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(お昼ごはんの野菜はお昼ごはんの前に収穫!)

先日、鶏をいたちのようなものに襲われて、8羽、葬った。今度こそ守ると誓ってから一週間もたたないうちの襲来。血を吸っただけで去ったのか、死骸は持ち去られず横たわったままだ。触れるとまだ温かい。肉は、人は食べられないが燃やしてしまうのは忍びなく思い、とりあえず一羽ずつ捌いた。内臓と羽を燃やした。T氏はいなかったから、四月少年が暗い中一生懸命焚き木を拾って、焚火をふうふう吹いてくれた。
煙が目に入り、わたしはもう情けないやら、悲しいやら、感覚が麻痺したようになりながら最後まで捌いた。少年がいてくれなかったら、絶対にできなかったと思う。
翌朝、オスヤギのガラをつなぎ直そうとしたら、やさしい目をしていると思ったのに、突然わたしに突進してきた。笹薮の中にしりもち(というより、背中もち)をつき、青空が見えた。イタドリの枝をグッとつかんでこれ以上ガラが向かって来ないように振り回しながら、「どうしてこんなことするの!(信じてたのに)ガラのばか!」と叫んだ。ガラは「なんで怒ってるんだろう」とでもいうような、きょとんとした顔をしてわたしを見つめている。
叫びながら、なんだか笑ってしまった。
前日からの緊張がほどけた瞬間、だったんだろう。
ヤギをつなぎ直し、柳といっしょに風にふかれながら、わたしはここで、都会に住んでいたときの何週間分かの、ぎゅっと詰まった何かを体験している、と思った。
たぶん誰かにとってはただ苦しいだけの、でもわたしにとっては価値のある何か。

報われることがあり、報われないことがあり、
喜びで満たされることがあり、がっくりと肩を落とすことがあり、
月並みな言葉だけれど、これが生きるということなんだろう、自然の中の営みというものなんだろう…そう感じている。
つやつやした収穫野菜のイメージや、楽しげなイベントばかりを求めるのではなく、
「”生きる”がぎゅっと詰まっている」ことそのものを求める人ならばきっと、自給暮らしの苦労も喜びに変えることができるはず。

というわけで、そんな開拓者(住人希望者)の方、お待ちしています。




2016.08.03 Wednesday ... comments(0) / -
#妖精と暮らす

初めにおかしいと気づいたのは、バラのとき。
植えたバラが翌日、掘り返されていた。
ヤギが通りがかりに引っ張って抜いてしまったのかと思い、丁寧に埋めなおすと、翌朝もまた掘り返されている。
それはとてもきれいに、まるで人間がスコップで掘り返したみたいに。
苗が食べられた形跡はない。
「これは庭小人の仕業だね」
そう言って別のところに埋めると、その後はだいじょうぶだった。
「庭小人が、ここの場所はよくないよ、って教えてくれたのかも」

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ところがその後、庭小人は活動範囲を広げていった。
植えかえした大好きなレモンバームも、Jさんにもらった大きなルピナスもギボウシも、Aちゃんにもらったラズベリーも。
みんな掘り返されている。
すぐに気づけばいいけれど、しばらく放っておいたら夏だもの、根っこはカラカラだ。
石を置いてもわざわざ動かして掘る。相当な力の持ち主だ。
おじいさんのトムテを想像していたけれど、いたずら好きの若者かもしれない。
困ったなあ…。

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ある日、掘り返されたライラックの根元に小さなウンチがあった。
ネコか?
通りかかった猟師のWさんに相談すると「これだけ掘るのはキツネだろう」と言う。本当に深く深く掘るのだ。
一体何のために?
「何か埋まっていると思うんだろうな。」
Wさんはカラカラになってしまったラズベリーたちをぱちんぱちんと切ると、わたしが持ってきた水入りバケツに根元を突っ込んだ。
「これでまた芽が伸びてくれたらいいけどな」

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ありがたいことにラズベリーは小さな芽を伸ばしてきてくれたけれど、「庭小人」に対してはその後も有効な対策が思いつかず、見つからないことを祈りながら埋めるだけ。
レンガや木で周りを囲んだり、支柱を立てて網を張ったりしているが、やられるときはやられるのである。
先日のあとりの会で博識のOさんに聞いてみると、やはり「キツネでしょうね。」との回答。
「動物の中には自分が採った肉の食べ残りを埋めたりするものもいます。そういうものを探して”埋め跡”を掘り返すのでしょう」


…またキツネか。
鶏を盗むばかりか苗までダメにしてしまうなんて、いい加減にしてほしい。
キツネにとっては至極当然のことなのだろうけれど、人間のわたしから言わせていただけるなら、たまには役に立つこともしてほしい。それだけ掘る力があるなら笹の根っこを掘り返すとかさ。朝起きて原野に行ってみたら、エンレイソウやエゾクガイソウをていねいに避けて笹だけを掘り返して畑を作ってくれていた、なんてことがあったら、相応に感謝するのだけれど。

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エゾクガイソウ

キツネの仕業と知ったからといって何もできないのなら、庭小人として、妖精として、あるいは妖怪として想像したままでいたって同じだ。

わたしは「妖精がいた頃」を生きている。
クリームをボウルに一杯、夕方に戸口の前に置いておくと、朝それがなくなっていた頃。
庭で菜園で不可思議なこと、人間には思いもよらないことが起きて、困ったり怒ったり笑ったりしながら、いたずら好きの妖精と共存していた頃。

虫にやられたり鹿にやられたりキツネにやられたり。うまくいかないことがたくさんあって落ち込むこともしょっちゅうだ。
だけれどこんなふうに人間の思い通りにならないのが、自然の中で生きるということなのかもしれない。何もかも人間の思い通り、計画通りになるって、実はすごく特殊なことなのかもしれない。

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妖精がいる世界と、いない世界と、どちらに住みたいのかと問われたら…未知のことやままならないことに取り囲まれた世界と、何もかもが思い通りになる均質な世界のどちらに住みたいのかと問われたら…わたしは、きっと前者を選ぶんだろう。
鶏の亡骸を少年と一緒に燃やしながら、悔しくてむなしくて煙で自分の心も浄化したいと願った夜とか、丹精込めて育てた作物たちが収穫直前でぷっつりと食いちぎられているのを呆然と見ていることしかできなかった朝とか、そんな日がなければよかったとは、きっと思わないんだろう。

これからも繰り返されるであろう、自然の厳しさを実感するとき、共存の難しさを痛感するとき。

心挫けそうになるそんなときには、胸の中で小さくつぶやいてみよう。
「わたしは”妖精がいた頃”を生きている。」
そして遠い昔に、妖精の姿を想像し物語を語った人々のことを、彼らの苦労と喜びとを想ってみよう。




2016.07.27 Wednesday ... comments(0) / -
#鹿の解体
肉を自給するために狩猟免許(罠)をとったわたし。
雪に埋もれながら毎日確認に行ったのもむなしく、冬の間の成果はさっぱりで、志がくじけそうになっていた。
ところが、免許をとったことをきっかけに地元の猟師さんたちと知り合いになることができ、勉強になるやら、モチベーションが上がるやら…
というわけで、血の匂いのする記事が続きます。

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この記事には、動物を解体している写真が含まれています。
動物を殺す・食べることに嫌悪感をもたれる方、肉を食べるべきではないとお考えの方は読むのをお止め下さい。
この先を読まれる方は、わたしが猟奇的な趣味から動物を解体しているわけではなく、食べるため、肉を得るために解体・精肉していること(そして、自分が解体していない肉を食べる時は誰でも、毎回、他者にそれをやってもらっているということ)をご理解のうえ、読み進められるようお願いします。
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雪の中、毎日罠まで通っては足跡を確かめ、今日はかかっていないか、明日はどうかと焦がれつづけた鹿。
「血抜きと解体の良し悪しで肉の味が決まる」と言われているため、ベテラン猟師さんの技を見せていただきたくてお願いしていたところ、日曜日の朝いちばんに「家の近くで獲れたよ!」と電話が。
家まで運んで見せていただくことになった。
この個体は一歳のオスだそうで、この大きさで「小さい」とは驚きである。

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まず、脚から皮を剥ぐ

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皮はきれいにはがれる。
ここで猟師さんが何度も言っていたのが「ナイフはよく研いでおく」ということ。ふむふむ…

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次に後ろ肢を切り離す。


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こちらはロース。
夏期、ハエがたかったりするときには、解体している間に肉に卵を産みつけられてしまうため、すべて解体せずにロースやフィレなどのおいしいところしかとらないこともあるという。
この日はハエもいなかったので全部とってもらうようにお願いしたところ、
「全部とるなら順番違う方がよかったな」と言っていたので、また今度見せてもらおう…

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職業猟師のWさんが捌くと、とてもきれいに肉がとれる。

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アバラ。
骨を切断するところは、骨も切れるような太いナイフで行っていた。

後ろ肢、前肢、ロース、フィレ、レバー、心臓、バラ、そして最後にタンをとると、もうほとんど骨と皮しか残っていない。
とても綺麗に、すっきりと肉がなくなり、変な言い方かもしれないけれど、「これだけきれいに無駄なくお肉をいただいたのだから、これでよかったのだ(鹿も納得してくれる)」というような清々しい気持ちになった。

今回鹿の解体を見せてくれた猟師さん、一人は職業ハンターのWさんで、もう一人は芽室町の議員さんでもある吉田さん。
吉田さんは<モクモク十勝>という面白い宿もやっていて、わたしたちは昔泊まったことがあるのだが、旅人が、たくさんのお料理が並んだひとつのテーブルを囲んで食事をするというアットホームなお宿。山菜など地元の食材が食べられ、十勝の話を色々と聞くことができる。移住したい人などは色々相談に乗ってもらえると思うので是非どうぞ。

「(今は無駄になっている部位なども多い)鹿で町おこしができないか」と吉田さん。
わたしも同じ思い。肉だけでなく皮や角、脂など、資源として活用できないかなあ…。他の町や企業もやっていることかもしれないけれど、効率よく、そしてセンスよく(ここが大事)、鹿を活かしきって、地域にもプラスになる仕組みが作れないだろうか…。
免許をとっただけで獲物をとったことすらないわたしはまだハンターとは名乗れないけれど、微力ながら何かができないか考えていきたい。

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後ろ肢二本。一人では持てない重さ。量ってみると一本で15kgあった。

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これはやわらかそうなフィレ肉。

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ロースも、とても大きい!
ロースとフィレ、前肢、後ろ肢は二本ずつある。
ロースと前肢とレバーはご近所のKさん、Nさんにおすそ分けしたけれど、Kさんも「新鮮なうちに食べきりたい」とIさんにおすそ分け。
とにかくすごい量だ。

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後ろ肢は、あとりの会で燻製にすることに決めた。

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腱を取り出しているところ

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T氏、関節の構造にため息…


さて、ここからはお料理編。

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レバーは1/4をレバニラ炒めに。残り1/4をペーストに。
心臓はT氏が味醂と醤油で炒めたら、子どもたちに大人気のお惣菜に。

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こちらはタン。
薄く切るのが大変だったけれど歯触りはまさにタン!
すこし生臭さがあったので、やっぱり塩ネギたれで食べるのが良かったかも。

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Nさんのために前肢を解体したときにでた半端な肉片。
パクチーと一緒に炒めたら、ご飯にも、お酒にも、な一品になった。

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おいしい…♡

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レバーペーストはクミンやコリアンダーなどのスパイスを入れて、パクチーと一緒に薄焼きパンに。
異国の味わい。



ところで、最初の写真の四月少年、手を合わせて祈っているように見えるが、実はそうではない。
まだか、まだかと解体を待っているのだ。

原始人の生活、狩猟採集生活に憧れる少年に育てたのはわたしたちだ。
すべてが自給自足で、あるものを工夫して生活を送ってきた昔の人々への敬意をわたしたちは常に抱いていて、この年代の少年達にとって避けては通れないらしい「戦いごっこ」が、無意味に銃で撃ちあうような殺伐としたものや、際限なく威力が膨張してゆく魔法合戦ではなく、「生きるための意味ある戦い」であってほしいという願いから、四月少年に狩猟への憧れを植えつけた。

ところが、今、少年はわたしたちの想像を超えて、狩猟をナチュラルなものとして捉えている。
鹿やカラスを殺して食べることに、都会育ちのわたしたちが普通に感じる「畏れ」を抱かない。抵抗も全くない。
彼の中にあるのは純粋な興味と好奇心、そして「獲物を獲って食べる」ということに対する本能的な興奮だけである。
どちらが自然なのかといえば間違いなく少年のほう。
今でも肉といえば獲って食べるもの、庭の鶏を絞めて食べるもの、という暮らしをしている人々が日本以外の国にはたくさんいて、そのような人々にとってはいちいち「畏れ」なんて感じていられないだろうし、あくまでナチュラルに、生活の一部として、「殺すこと、解体すること」が「食べること、生きること」とつながっているのだろうと思う。
それはほとんど野生動物と同じ食べ方だ。

しかし、死から引き離されて育ったわたしたちは、そうではない。鹿の死の意味を考え、鹿の痛みを思い、手を合わせて祈らなければ食べられないと思う。死を畏れ、死んだものを敬う気持ちなしには解体できない。
だから息子の、死を自然なもの、肉を与えられたものとして得る生き方…彼はたった七歳だけれど、それはすでに「生き方」になっているような気がする…を見ると少し戸惑う。もう少し「畏れ」を感じた方がよいのではないかと思ってしまう。幼い頃からこんなふうに育って、彼の中の死生観はどのようになってしまうのだろうと、少々不安に感じる。

少年は肉を食べて、何を感じているのだろう。自分が生かされていることを、どんなふうに感じているのだろう。
わたしはわたしとは全く違うベースをもった彼に、何を教えたらいいのだろう。
今は猟師さんにいただいた肉を解体しているけれど、「獲物を獲って食べることの喜び」は、「努力して追い、殺さなければ肉が手に入らない状況」とセットになって初めて、少年にとって何らかの意味をもつような気もしている。肉を購入するのを止めてみようか…。

少しずつ、少年と語り合いながら、わたしも一緒に考えていこう。自然の中に当たり前にある、でも当たり前ではない、生と死のことを。

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Wさん、吉田さん、貴重な経験をありがとうございました!



2016.06.14 Tuesday ... comments(0) / -
#春の原野/カラスを食べる
昨日は、十月少年の友だちSちゃんのお母さんMさんが、薪を取りに来ることになっていた。
朝の8:30ごろ、「そろそろ掃除しよう」と思っていたら、玄関の鈴がカランカラン!
「ええっ! 確かに”何時でもいい”って言ったけど、いくらなんでも早すぎでは…」と思って出てみると、そこに立っていたのは猟師さん。

「今日はこの近くで猟でもしようかと思って。免許とったそうだけどどうですか?」
この冬、くくりわなでの猟を試みたものの、罠掛けの稚拙さにより鹿に避けられたり、どっさり降った雪で罠が作動しなくなったりとがっかりしていたわたし、ベテランの猟師さんに相談できる機会はありがたい。罠のかけかたについてアドバイスをいただいたり、やっぱり銃がないとダメだろうか…などと相談させてもらっていると、空気銃の話になった。

「カラスなんかだと空気銃で十分なんだけどね。」
「カラスのお肉はおいしいって何人もの人に聞いたことがあるんですけど、本当ですか?」
「ああ、赤身だけどね、食べられるよ。ここにいれば撃ってあげるんだけど…」

原始人/狩人に憧れている四月少年はカラスを獲るところを見たがったが、ハンターがいることを知っているのか、いつもは近くまで寄ってくる(そして鶏の卵を盗んだりする!)カラスたちが寄ってこない。
猟師さんたちは「今度鹿の解体の時に呼んであげるよ」とこれまた大変ありがたい!お言葉を残して帰っていったが、しばらくすると
「カラスが獲れたけれどいる?」
と戻ってきてくれた。

猟友会で活動しているハンターたちは町の「有害鳥獣駆除員」として、農作物を荒らす鳥獣を駆除する役目を担っている。
有害鳥獣の種類はいろいろだが、鹿やキツネ(豆やコーンなどを食べる)の他にカラス(牛にいたずらをして、生まれたばかりの子牛を殺すこともあるらしい)も「有害鳥獣」として指定されており、駆除の対象となっているのである。
わたしがもらわなければ処理施設で処分されてしまうお肉。ありがたくいただくことにした。
イメージの悪いカラスだけれど、フランス料理ではジビエとして扱われているのだそうである。


===閲覧注意===
ここから先、カラスの解体処理の画像があります。
ご覧になりたくない方は飛ばしてください。

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想像していたよりも重くて、あたたかい。

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まだあたたかくて、生き物の匂いがする。

すでに心臓は止まってしまっていたため、うまく血抜きはできず。
羽根毟りは外でやろうかと思ったのだが、お湯が使えないので洗面所で行った。

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本当は濡らさない方が楽だけれど、手に張り付いてくるのでお湯で流しながら行った。
鶏と同じで独特の匂いがあり、一時間も羽根を毟っているのは精神的に辛い作業。
十月少年「カラスかわいそう…食べたくない…」
四月少年「カラスの肉ってどんな味だろう? もうお肉になってきたね? 早く食べてみたい!」

と、そこへ本来来るはずだったMさんとSちゃんが到着。
「あああ〜全く掃除していない。そしてわたしの両手にはカラスの羽が!!」

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Mさんと子どもたちには室内で遊んでいてもらい、カラスの頭を鉈で落とす。
思っていたよりも肉付きがよい。ハトなどもこんな感じなのかなあ。

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精肉。
ナイフで切るのは主に膜で、肉はそれぞれの部位で綺麗に手で剥がすことができる(はず)。
まだ下手だけれど、ほぼ無駄なくとれたと思う。

さて、無事にお肉になったことにほっとして、すこし原野を案内することにした。

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まだマダニはいないかな?
去年は一度もマダニに咬まれなかったので、わたしたちが越してきて動物たちのルートが変わり、このあたりの笹からマダニが撤退してくれたのではないかと期待しているのだが、さてどうだろう。

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だいぶ雪も溶けてきた!

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雪どけ水で春だけできる池と小川。

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いきなり長靴に水が入る…

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フッキソウ!

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水の音が心地よい

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水は透明

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透明な水をみるときのこの喜びはなんだろう

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ぼっこ(北海道弁で棒のこと)で魚釣り(草をひっかけてもちあげる)を楽しむ十月少年

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雪に埋まったり川を渡ったりしながら「ひとつめの池」を目指す

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家が遠くに見える

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ひとつめの池到着

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せせらぎのなかのふきのとう!

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氷が張っていた池に緑が。

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お水気持ちいいなあ〜

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ヤチボウズ

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年少二人が岸辺で待っている間に…

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おもむろに池に入る四月少年(六歳)
好きにしておくれ。

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ヤナギの銀の花をみるとすずしいような、あたたかいような不思議な感じ

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四月少年、島に到着!
あの島はあとすこしすると、オオバナノエンレイソウが咲いてとてもいい場所になるのである。

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おーい少年、わたしもそこの場所好きだよ。

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つなぎを脱いで、

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くつろぎたい気持ちもよくわかるよ。
その島で一日中ぼんやりお茶を飲んだり、本を読んだりしたい。

あの小さな島にわたしが惹かれる理由は、あの島が「子どもサイズ」であることに関係しているような気がする。
子どもの頃の秘密基地、秘密の場所、隠れ家みたいなものを思い出させるから、なんじゃないかな。

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Sちゃん「みてーこのツル、楽器みたい!」

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せっかく日向ぼっこしたのに、帰りはまた冷たい。

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ヤナギのふわふわ、み〜つけた

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ヤチネズミにかじられた跡。

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自然の作りだす造形美、いつみても人間は敵わないと思う。

最後の笹斜面で半べそになっていたSちゃんだけど、それなりに楽しんでくれたそうな。
原野遊びは木の枝で顔を打ったり、転んで怪我をしたり、虫に刺されたり、多くのリスクがあるけれど、「遊具がなくて素材がある」という環境は子どもが自ら工夫して遊ぶのにぴったり。観察したり道具をつくったり何かに見立てたり、冷たかったりどろどろだったりかさかさだったり暑かったり、沈んだりのぼったり、そんなすべてが子どもの世界を豊かにすると思う。
谷川俊太郎の文章を思い出す。

 ぬかるみで遊ぶから、草原の上に立ったからこどもは喜ぶのではない。
 喜びはすでに子供の身内にみなぎっているのだ。
 ぬかるみや草原に足や手で触れること、すなわち世界に自分の肉体で触れることが喜びを目覚めさせ解放する。
 それはひとつの爆発だ。
 そのとき心は身体を通して、しっかりと世界と結びつく。
 そこに生きることのもっとも根源的なかたちがある。

谷川俊太郎『「ん」まで歩く』より


「そのとき心は身体を通して、しっかりと世界と結びつく」…自分の幼少時代の自然体験を考えても、すごく納得できる言い回し。
せっかくの原野、もっと十勝の子どもたちに開放したいなあ。

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さてSちゃんとMさんは無事に薪を積んで帰り、カラス肉を今晩のシチュー用に切る。
赤身でサクサクしていて、鹿みたい。

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腿とレバー、心臓。

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まずはフライパンで

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焼いてみる。
焼いている匂いも、鶏より牛や鹿に近い気がする。
味見をしてみると、固いけれど味は悪くない。やっぱり血抜きがうまくできなかったから多少臭み(レバーのような)は残ってしまった気もするけれど、固くて脂がない鹿…に近いかなあ。

鍋で赤ワインと煮込んでシチューにしてみた。

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どうだったかと聞かれても、わたしにはよくわからない。
というのは、やっぱり一人で何時間もかけて羽根を毟って解体して精肉するのは、ものすごく疲れることだからだ。
自分で殺したわけではなくても、やはり精神的に負担を感じる。
あれほど「かわいそう」と言っていた十月少年は、「お肉おいしい!お肉おかわり!」と食べていたが、わたしは少し食べたら満足してしまった。

つらつらと考える。

これが自然なのかもしれないなあ。
自分でこれだけの時間をかけて解体してみると、「毎日は食べなくていいや」と思う。
でも、そうして肉をしばらく食べられないでいたら、きっと鹿が獲れたときには大喜びして、ものすごくおいしくいただけるに違いない。みんなで肉を分けて、干したり燻製にしたりして、少しも無駄がないようにするだろう。
肉を食べるために自分で解体するしかなくなったら、きっと「基本的に草食」の人が増えるんだろうなあ。
でも、そういえば『大草原の小さな家』ではワタリガラスだったか何かを毎日撃ってパイやら何やらにして食べていた。昔のアメリカのお母さんは羽根を毟って解体して精肉して夕食を作っていたのだなあ。
解体業者さんは、普段お肉を食べるのかなあ。食べられるのかなあ。
慣れたら平気なのかなあ。
わたしたちは普段、解体業者さんに殺しを押し付けて、おいしく肉を食べているんだなあ…


こんな経験を重ねても、わたしは完全に草食になることはないだろう。
お肉もお魚もおいしいと思う。
時々は食べたいと思うし、それが自然なことだとも感じている。
でも、いただくときの心持ちは、知らなかった頃とは全然違う。
生きていた、生き続けたかった命があり、殺してくれた人があり、解体してくれた人があり、精肉してくれた人があり、そのうえで味わうことができるのだ。

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シチューなので赤ワインを飲んでいたけれど、赤ワインの中の肉と合う要素、鉄のような、血が滴るような感じが、解体者であるわたしにとってはどうにもくらくらさせられるものであったため、日本酒に取り替えた。
あ〜、おいしい、亜麻猫。軽やかで爽やかで甘酸っぱい。



翌日、車を運転していてカラスが目に入ったとき、突然不思議な感覚がやってきた。
何かあたたかい感覚、それは、自分の手のなかで羽を毟られたカラスのあたたかさ。
わたしは、今では自分の身体の一部になっているカラスの命のあたたかさを感じ、カラスをいとおしいもののように感じたのだ。
「血となり肉となる」ということが、感覚として実感できた瞬間だった。

これまでは、鶏の卵を狙ういやな鳥。なんとなく不吉な黒い鳥。
これからは、それが今を生きているあたたかい命だということを忘れることはないだろう。



2016.04.02 Saturday ... comments(2) / -
#受け容れる ―夫婦別姓のはなし―
自分のとくべつ好きな人たちの共通点を考えてみた。
植物のような人、木や花のような人が多い。
女性だったらおおらかで、ちょっと浮世離れしているくらいの、妖精のようなひとが好きだ。
彼らはこちらの言うことが理解できなくても、自分はそうしたいと思わなくても、否定しない。
否定しないだけでなく、否定の雰囲気とでもいうのだろうか、そういうものが伝わってこない。その代りに「うんうん。あなたはそうなんだね」という受容の感じが伝わってくる。
わたしが何を言っても、しても、ジャッジしない。
もちろんわたしのことだけでなく、誰かのことを否定したり悪く言ったり、憎んだり呪ったりしない。

苦手な人も、ほとんどいないが、たまにいる。
共通点は、すぐに否定する(もしくはその雰囲気がある)こと、そして人をジャッジすることである。
これは話が合うとか、合わないとか、そういうこととは全く関係ない。
そういう人たちと一緒にいると、相手の気に入らないことを言ってしまうのではないかと恐れながら話さなければいけないため、とても疲れてしまう。緊張する。
ジャッジされるのって大変なんだな。

でも、よく考えてみると自分は子どもの言っていることを否定してばかりのような気がする。
「うんうん。あなたはそうなんだね」ではなく「どうしてあなたはそうなの」と言っている。
「それはおかしいんじゃない?」と、そんなことばかり言って、結局は子どもを自分の思い通りに動かそうとしている、ような気がする。
ああ、理想の母はムーミンママなのに〜。


理解できないことを、できたふりするのは無理だ。
共感できないことに、共感したふりをするのも。
でも、そのままで受け容れることはできる…


(ダンボールの城ホテル)


年末、夫婦別姓のことで新聞社の取材を受けた。
わたしはT氏と結婚しているため、戸籍上はT氏の姓だが、通称名として旧姓を使用している。
待ち合わせ場所に記者さんが現れた時、わたしはとても緊張していた。顔も強張っていたと思う。
「旧姓にこだわっている理由というか、そういうものがあったら教えてください」と言われた瞬間、きた、と思った。


 みなさんそう訊かれるのですが、わたしにとっては、「こだわっている」という意識はありません。
 わたしにとっては、「なぜ自分の名前が変わっても平気なの?」なんです。
 実際にそう訊ねてみることもあります。
 そうすると、たいていの人は、すぐには答えられません。
 たぶん、「女性は結婚したら名前が変わるものだ」と、思ってきたからじゃないかと思うんです。
 だから平気なのだと思うのです。
 だって、「名前が変わっても平気だ」という男性は、女性より圧倒的に少ないと思いませんか?
 男性が姓を変えると「なんで?」と言われあらぬ勘繰りを受け、女性が姓を変えたくないというと「こだわっている」と言われる。
 それは、「結婚して姓を変えるのは女性のほうである」というのが、男女の婚姻に関する社会通念だからですよね。
 もちろん、法律上は姓を変えるのは男性でも女性でも構わないことになっています。
 そこには一見不平等はありません。
 でも、「結婚して姓を変えるのは女性のほうである」という社会通念には不平等があります。
 女性には投票権がいらないとか、女性には学問はいらないとか、そういった不平等と同じように、「結婚して姓を変えるのは女性」という不平等な社会通念は、変わってほしいと思っています。

 もちろん、結婚して家を継ぐとか、相手の家に入るとか。そういう価値観で生きている人がいることは知っていますし、そういうあり方にも敬意はもっているつもりです。
 でも、そうではない家族のあり方が増え、家族の形も多様化しています。
 ですから、選択できるようにしてほしいのです。
 別姓を選択できるようにしたら日本の家族観が変わってしまうなんていう意見も目にしますが、もう日本の家族観がひとつであった時代はとっくに終わっているんじゃないでしょうか。
 別姓になったら家庭が壊れるという人もいます。
 でも、わたしは、自分の姓を名乗りたいという意思を理解してくれる夫に自分が尊重されていると感じていますし、こういった尊重なしの「家庭」なんていりません…


この話の間に、何度か記者さんは、(こだわり、とは言わないまでも)わたしの旧姓への特別な愛着がどこから来たのか、愛着が特別でないとしたら「女性は結婚したら名前が変わるものだ」とわたしが思わなかった理由はどこにあるのかを聞きたがった。
でもわたしは頑なだった。
「わたしが特別なのではありません」
という態度をとりつづけた。

記者さんが、旦那さんにも話を聞きたい、と言うので、後日我が家に来ていただき、T氏や子どもたちを交えて同じ話をした。
T氏が言った。


 別に嫌ではないです。
 ああ、もちろん親戚関係とか、面倒なことはありますよ。
 でも妻の気持ちは分かります。僕も名前を変えるのは嫌なので。
 法制化されて、別姓を名乗れるようになったらいいと思っています。


T氏の話を聞いて、記者さんがしみじみと言った。
「理解ある旦那さんで良かったですね…。”俺の姓になりたくないということは、愛していないということだ、家族ではいられない”という人もいますよ」
「えっ? それが愛って…。そっちの人の方が、奥さんの気持ちを全く尊重していないんじゃない」
とわたしが言うと、
「でも夫婦の形は人それぞれだから。◯◯家とかその名前を守るとか、代々そうであったことを守りたいという、そういうことを大切にしている価値観もあるわけだから」
とT氏。
「それを否定したら、つまり自分とは違う意見を否定するってことになると、夫婦で別の名前を名乗りたいということを否定する人たちと同じになっちゃうよ」


(四月少年が、内容スカスカで全編を通じて一か所も面白くない本を借りてきて読んでいたので、思わず本人がそのことに気づく前に「そんなの読むくらいなら『かいけつゾロリ』にしなさい」と言ってしまった。おかげで寝ても覚めてもゾロリ・ゾロリ・ゾロリ…。自分が小学生低学年の頃何を読んでいたか思い出せない。かぎばあさん?王様シリーズ?はれときどきぶた?? すべての漢字にルビが振ってある面白い児童書情報求む!)


記者さんが帰ったあと、T氏と改めて夫婦別姓について話した。

「何だか今でもよくわからなくなることがあるの。別姓を名乗りたいなんて、周囲に迷惑ばかりかけて、ただの自分のエゴなのかなあとかさ。わたしにとっては切実なことだけど、他の人から見たら単なるワガママな人間なのかなーとか、弱気になることもある」
「いいんじゃない、そうしたいんだから」
とT氏が言った。
「エゴとか考えなくても」
「でも、”こだわってる”って言われるとすごく、なんというか…嫌なの。否定された気分になる」
「いいじゃん、こだわってても」
「…」
「愛着があるというのは本当のことでしょ。きっと他の人と比べたら、その愛着は強いんだと思うよ。でも、それの何がいけないの? いいじゃん、愛着があって」
「…」

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(薪ストーブの薪がいつのまにか積木に…)


翌日、迷いながら記者さんに電話した。


 わたしは…
 初めてお会いしてお話した時、ちょっと武装していたというか、とても気を張っていました。
 何度も何度も「わたしはこだわっていない」「わたしが特別なのではない」って言っていたでしょう?
 いつも、この別姓の話をする時には、相手にどう思われるのだろう、変わった人間、急進的な女だと思われるだろうか、エゴの強い人間だと思われるだろうか、と、緊張しているのです。
 そういう重なりがわたしに武装させていたんだと思います。
 旧姓への愛着は、確かに他の人よりも強いのかもしれません。
 わたしは昔から文章を書いてきたし、学生時代は短歌が専門で、卒業してからもずっと旧姓で歌を詠んできました。
 これが自分の名前だという思いは、他の人より強いのだと思います。
 先日は、わたしがおかしいんじゃない、みんなが間違った社会通念を間違っていると思っていないだけだ、みたいな言い方をしてしまった。
 でも、そうじゃない…
 それぞれでいいんですよね。
 皆、色々な価値観や考えがあって選んでいることだから。
 多様な価値観を受け容れる社会になることを望みます。


この記事は地元の新聞のわりと目立つところに掲載され、多くの人の知るところとなった。
そのおかげで、長年悩んでいた「子どもが小学校に入ったら地域でもT氏の姓で呼ばれるようになってしまうのではないか」という「小学校問題」も先生の計らいによって解決。なんとPTAの名簿に自分の名前で載せてもらうことができた!
丁寧な記事にまとめてくださった記者さん、学校の先生方、ご協力くださる地域の方々への感謝でいっぱいだ。

この社会で生きる人すべてが、お互いに共感したり、理解したりできるわけではない。
でもそれらの違いを、ときにぶつかりながらも受け容れてゆける懐の深さがあれば、誰にとっても今より生きやすい社会になるだろう。
もちろん、「それはおかしい!」と思うことも、そう声をあげて伝えることも、時には必要だけれど、その場合も自分にとっての正論を押し付けるのではなく、相手の話を聞きながら共に考える姿勢でありたい。

…まずは子どもとの関係からがんばろうっと。


(雪どけしてきた原野!)



2016.03.26 Saturday ... comments(0) / -
#おびひろ氷祭り
去年初めて行って、いっぺんで大好きになってしまった「おびひろ氷祭り」。
今年も行ってきた。

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滑り台からステージが見える。
去年と同じ人が来て同じ歌を歌っていた。毎年恒例なのかしら?

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「帯広のひと(たぶん女とかいてヒトと読む)」と「帯広エアポート」。
なぜか盛り上がりまくってしまうわたし。自分でも気づかないうちに深い帯広愛が育まれているらしい。

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氷の滑り台。高い!
降りるとふわふわの雪に埋まる。そして自衛隊員さんが助け起こしてくれる。
ありがとうございます。

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今回は乗らなかったけれど、人力で動かす牛の形の乗り物にも乗せてくれる。
去年は写真も撮ってくれた!
そちらは確か、商工会議所青年部の皆さんが企画してくれていたはず…ありがとうございます。

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この、意識を鮮明にする青さ。

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屋台もいろいろ

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たくさんの知らない人たちで火を囲む。

「あれ、それなあに?」
「いももちです」
「あらあ〜それにすればよかったわー」
「子どもさんいるんだから椅子つかって」
「ありがとうございます〜S、座らせてもらおっか」
「(椅子をどこからか持ってきて)お母さんも座って!」
「あら〜すみません、ありがとうございます」
「そんなカメラなんか下げてなにかい、かちまい(※)かい?」
※かちまい=十勝毎日新聞社
「まっさか〜!」

そうだ、去年もこんな感じを味わったんだっけ。

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花火。
去年も思ったのだけれど、こんなにうつくしい花火は見たことがない。
関東の、夏の花火と、どうしてこんなに違うの?
寒いから?
空気が澄んでいるから?
音楽が流れているから?
わたしがネオンから遠い生活をしているから?
川の対岸から見るのとは、音や大きさが違うからだろうか。

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目は花火を見ながら、レンズを空に向けてシャッターだけ押しまくった写真たち。

このかちまいの花火は、配色のセンスがとても良い。
子どもっぽくないというのだろうか。
リズム感やバランスもすばらしく、人をエクスタシーに導いていく、真冬のための花火。
花火って芸術なんだな。

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写真では全然伝わらない、圧倒されるような光の雨。
立ちつくす人々の身体が皆同じように「ドン」と、鳴る。ふるえる。
とても現実とは思えない。

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光の雨。ざーっと身体に降ってくる。
ばらばらと身体の上で弾ける音がする。

誰だって、来年この花火を見られるかどうかはわからない。もしかしたらこの中に、来年はこの世界にいない人もいるかもしれない。
けれど、大切なのは今。これだけうつくしいものを見て、自分が生きていることを実感しているこの瞬間。
最後にはみんなここを去らなくてはならない、そのことがわかっているからこそ、今この瞬間にここにいるということがこんなに眩しく感じられるんだ…
そんなことを身体で感じさせてしまう、魔法の花火。

火の粉がシャーと降ってくる。
消える。

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また来年。



2015.02.08 Sunday ... comments(0) / -
#冬支度掘〃は熱いうちに剥け 
ということでせっせと栗剥き。

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少年が使っているナイフは、牡蠣の殻を剥くために独身時代のT氏宅にコータロー君が持参して置いて行ったナイフで、通称「コータローナイフ」。
このコータローナイフは万能で、バターやジャムを塗る、チーズを切る、小さい子の包丁かわりに、などなど八面六臂の活躍ぶり。子どもに持たせても手を切らないので、気軽に使える。

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一気に寒くなった十勝地方。
日に日に気温が下がるのを肌で感じる。
ついつい開拓をやめて、部屋で本を読みたくなってしまう日も…

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ついに薪ストーブに点火。
本体は中古だが煙突が新品なので、塗料を焼き切る。

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火に対峙していると、大昔の人もこうしていたのだろうかと、始めに火を手に入れた人類の心に思いを馳せてしまう。

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食べるまでの一連の作業に時間がかかるのでしばらくデッキに放置されていた胡桃を、少女たちが来たときにみんなで協力してクッキーに。

最初から「これ作ろう!」とプログラムのように決めて作るのではなくて、「あ、クルミ割ってみよう」から始まり、石で割って、そのへんの木で掘りだして、遊びの中から「クルミたまったから何かにしよう」という、そんな流れが楽しい。

胡桃がたっぷり入った贅沢クッキー、大きな粒も粉も一緒に焼きこんで、市販のカリフォルニアクルミでは出せない秋の味になった。

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朝起きるなり、昨日は楽しかった、おいしかった…と幸せそうに言った四月少年、早速翌日も胡桃割り少年に。
ということで胡桃のおやつ第二弾。

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材料は、小麦粉(全粒粉)、胡桃、黒砂糖のみ。
素朴だけどおいしい。

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外で食べられる日もだんだん少なくなるのかな…

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ということで、まだまだ栗剥きは終わらない!
栗ジャム、栗ケーキ、栗ごはん、栗シロップを思いながら、秋の手仕事は続くのでありました。



2014.10.07 Tuesday ... comments(0) / -
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